Work for Mother Earth
北山 耕平
わたしの後ろでは すべてが美しい
わたしの前では すべてが美しい
わたしの上では すべてが美しい
わたしの下では すべてが美しい
わたしの周囲では なにもかもが美しい
なぜなら すべてが美しいことを
わたしは 知ってしまったから
―――ナバホ・インディアンの祈りの言葉
地球には聖地と呼ばれる場所が無数にある。そのどこもが、まず間違えなくエネルギーと意識を集める場所である。だからこそ人間と聖地と宗教は密接な関係を持ってきた。寺院や神殿や教会の立っているところも少なくない。古代の遺跡があったりもする。すべての宗教が、自分たちの聖地を持ってる。しかし、聖地はそれぞれが独自に存在しているのではなく、実はすべての聖地が見えない糸でしっかりとつながってもいるのだ。人工的なものがなにひとつない場所だってある。それでもその場所は聖地とされる。そこにおいては、なんらかの形で人間の痕跡を残すことが、大地にたいする冒涜以外の何物でもないと考えられてきたからだ。山のなかにゴミを捨てる行為とそうかわらない。聖地が「聖」であるのは、あくまでもそこが人間と母なる地球の偉大なる精霊とのつながりを、よリ密接なものにしてくれるところにある。そうした場所は、単に人間にとって大切な場所であるのみならず、ひとつの惑星である地球自身にとって、きわめて重要なものであるはずである。東洋の医学を学ぶものなら、そうした場所が、いうならば「地球のツボ」であることが理解できる。そこに宇宙的なエネルギーが通っていることは、地球が生きているということの証なのだ。私たちは地球が生きて、意識を持ち、考えているひとつの生命体であることをそこで体験する。人間の身体に、生命エネルギーを循環させているたくさんのツボがあるように、地球にも、地球を生かせ続けているたくさんのツボがある。それが聖地と呼ばれている場所である。そうした場所では、すべての生命が、物理的、精神的、生態学的に、深い関係をもって存在している。時間も空間もそこでは呼吸をしている。そこは生命を地球とつないでいる場所、見えざる臍の緒だ。
地球が生きていることを今なお忘れないでいる伝統的な人々の多くが、自分たちの聖地が破壊されたり失われたりすることで、人類全体に災いがもたらされると信じていることは、極めて興味深い。聖地は、この地球にある一切すべての生命が網の目のようにつながっていることを知る人たちの手で、かろうじて守られてきた。その人たちは聖なるものを通して偉大なる精霊を見る目を持っていた。
だか、コンピューター・通信衛星・マスコミュニケーション・ネットワークを通して、わたしたちは地球そのものの急激な変化を日常的に目撃する。科学の目は偉大なる精霊までは映しだしてはくれない。それはものさしや秤で計測できるものではないからだ。まるで子供のおもちゃを壊すように、資源開発の名のもとに地球の至る所で聖地の破壊が進行している。それは地球中で起こっている。聖地を通して、見えない臍の緒でつながっていた生命と地球。今その絆が人間の手で一方的に断たれようとしているのだ。大地の破壊はとどまるところを知らない。聖地を消滅させることは人間が生命維持装置を自らの手で外す行為にも等しい。
今は地球との聖なる関係を回復するときである。工場化された社会から外に足を踏み出して、聖地を体験することによって、地球が生きているということを知り、もう一度この地球ですべての生命と共に生きることを、学びはじめるときである。わたしたちの意識を、もう一度地球という惑星に向ける必要がある。暗黒の宇宙から見ると、地球こそがそのままひとつの聖地であることを、肝に銘じておくこと。
──写真集『聖地より』 Text ©Kouhei Kitayama
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